市政記者が行く!! 日本探偵小説の“母”~小酒井不木~

名古屋の知られざる偉人を教えて!
千種区・50代男性

「知られざる偉人」…今回は“日本探偵小説の母”と言っても過言ではない、小酒井不木(こさかい ふぼく)氏を紹介します。案内をしていただくのは日本の近現代文学史を研究している金城学院大学文学部日本語日本文化学科准教授の小松史生子(こまつ しょうこ)先生。江戸川乱歩を見出した探偵小説評論家として、また自身も医学的見地から数々の作品を生み出していった作家として日本の探偵小説界を牽引した小酒井氏について、伺ってみました。

活動の拠点、中区鶴舞へ

「江戸川乱歩、小酒井不木、国枝史郎がここを歩いたと思うと感慨深いですね」

そう話す小松先生に案内されたのは、旧御器所町(現在は中区鶴舞)の小酒井不木邸跡地だ。執筆活動の拠点であったこの場所で、まずは不木の経歴を聞いてみた。


小松先生と表札

小酒井不木、本名光次は明治23年(1890年)に名古屋市で生まれた。若年期に肺を病み、あまり活発ではなかったが、愛知一中、京都三高を経て大正3年(1914年)に東京帝国大学医学部を卒業。血清・生理学を専攻し、医学博士として東北帝国大学助教授などを拝命、大正6年には衛生学研究を目的にアメリカやヨーロッパ諸国へ留学する。しかし、留学先で持病の肺結核が悪化したため、帰国の途につき療養を余儀なくされる。

小松先生によると、不木は当時の医学界でも希有な人材であり、将来を嘱望された存在だったという。「生理学の世界的な権威で、非常に優秀だったようです。とりわけ東北帝大助教授については病気のせいで、ほとんど教壇に立てなかったにもかかわらず、任を与えられていますね」

現在、不木邸跡地は閑静な住宅街にひっそりと表札が佇むのみ。晩年は敷地内に小さな研究所を建て、後進の育成なども行っていたという。自身の職業も含め、不木の生涯は常に病魔との闘争であった。終生彼を苦しませた過酷な闘病生活が無ければ、全く別種の、知的エリートとしての一生が約束されたはずだった。

別格


小酒井不木

不木が日本の探偵小説史に登場するのは、療養していた大正10年9月、新聞連載をしたエッセイ「学者気質」からだろう。病床や留学先で読み耽った、膨大な量にのぼる海外の探偵小説について詳述したエッセイが、探偵小説雑誌「新青年」主幹であった森下雨村(もりした うそん)の目に留まり、執筆を依頼してきたのだ。

「トリックが必要とされた当時の知的な小説は、『どうやって医学的・科学的論拠を一般読者にとってわかりやすいものに作り上げるか』が一つの課題としてありました。そこに海外の探偵小説を読み漁り、医学分野出身の不木が登場して語るわけですから、別格の存在として迎え入れられたようです」と小松先生は語る。

その話を裏付けるのが、江戸川乱歩の作品を見出した時のエピソードだ。 大正12年の初めに雨村から不木の元へ乱歩の処女作「二銭銅貨」が送られてきた。同封された手紙には「懸賞に応募してきた作品だが、非常に良くできている。もしかして海外作品の翻訳ではないか? 意見を聞かせて欲しい」とあった。不木の知識量と作品の批評眼を信頼したからこその依頼と言える。精読した不木はこの「二銭銅貨」を激賞し、自ら推奨文を寄稿、乱歩を世に送り出す一端を担った。

乱歩問う「博士、私は果たして一人前になれるでしょうか?」

乱歩は不木へ礼状を送った後、頻繁に手紙のやり取りを行って、自作のトリックを細かく解説し、叙述や法医学的な解釈の正当さを確認していく。

小松先生によると、この頃の二人の対話で、面白い話があるという。「乱歩が死蝋(死体が蝋状になる化学反応)の出来上がる様子を不木に聞いているのですが、不木自身は臨床に立ち会ったわけではなく、専門書の知識だけで解答しています。でも、どこか曖昧な解答になって…今ほどしっかり解明されていないと言うのもありますが、何とか乱歩に答えてあげようと奮闘する様子が微笑ましいですね」

大正13年、乱歩がドイツの心理学者ミュンスターベルヒの本をヒントに短編「心理試験」を書き上げた時は、原稿を不木に送り「私は果たして探偵小説家として一人前になれるでしょうか?」と判断をあおぐ手紙まで書いている。不木はそんな乱歩を激励して、金銭に困らないよう雑誌社に便宜を計ると返答。乱歩は探偵小説界の頂点へと登りつめて行く。この時期の往復書簡を追うと、親密度を増す二人の師弟愛は、徐々に文壇での親子愛に近付いていったようにも見える。

日本探偵小説の『母』


不木原稿

当時の不木は、新青年を初めとする大衆小説雑誌で殺人論や犯罪論、医学随筆を精力的に執筆し、匿名でドゥーゼやチェスタートンなどの翻訳も手掛けた。後に乱歩は、これらの作品から「多大な刺激を受けた」と述懐し、その功績を称えている。また、不木が持つ医学博士という肩書きは、“悪書”として批判されがちだった探偵小説黎明期の地位向上にも多大な貢献を果たした。自然、周囲は不木独自の探偵小説を熱望することに。

「『自分は学者である』との立場もあり、当初、探偵小説を執筆することには距離を置いていたようです」と小松先生は不木の困惑振りを語る。

しかし、乱歩や雨村の熱烈な説得が実を結び、大正13年末から「紅色ダイヤ」「呪はれの家」「按摩」などを立て続けに発表して、創作活動を宣言。病気の鬱憤を作品で晴らすかのように、不木は切れ味鋭い短編から技巧を凝らした長編まで、鬼気迫る勢いで作品を書き上げていった。

現在、「新青年」を興し、日本で探偵小説の分野を切り開いた森下雨村は“日本探偵小説の父”と呼ばれている。その雨村と共に、不木は探偵小説を医学・科学的な面で良きアドバイザーとして支え、文壇の親代わりとも言える立場で江戸川乱歩を見出し、自らも膨大な医学知識を使った執筆活動に入っていく…

「不木を日本探偵小説の『母』と言っても過言ではありません」(小松先生)

国産SF小説の先駆者

不木は創作にあたったおよそ4年半の間に、長編5編、読み切り67編という驚異的なペースで筆を進めた。

掌編ながら傑作の呼び声高い「恋愛曲線」は、小松先生もお気に入りの作品だ。「今考えると、少し突き抜け過ぎた発想かもしれませんが、読み物として全く色あせていません。10ページに満たない短編ですので、是非とも読んでもらいたいですね」と、にこやかに語る。

「大正15年に発表された『人工心臓』は、心臓を人工的に作り出そうとする研究家夫婦の物語で、日本における最初の純SF小説として知られています。長編『疑問の黒枠』は新青年で初めて“犯人当て懸賞”を実施した意欲作です。鶴舞公園や大須も出てきますよ」

一方で、学者然とした雰囲気を持つ不木の作品は、無味・無臭・無菌の状態を想わせる内容から「冷徹過ぎる」「化学書でも読んでいるようだ」「実験室の外へ出てこない」と揶揄された。中でも、不木を動揺させたのは文芸評論家・平林初之輔が提唱した“健全派・不健全派”という分類だ。平林は乱歩・不木のような奇抜さや幻想的な作風が先行する作品を“不健全派”と呼んで、探偵小説の傍流と位置付けた。

「自作を『芸術』として扱っていた乱歩は、あまり気にしなかったようですが、万人の娯楽としての探偵小説を目指した不木にとっては、“不健全派”と呼ばれるのは本意ではなかったのでしょう」と小松先生は分析する。

この提唱以前も少年科学探偵が活躍するジュヴナイル(少年少女向け)小説などで裾野を広げようと尽力していた不木だが、通俗雑誌や女性誌へ積極的に掲載し、探偵劇『竜門党異聞』の帝国劇場上演にも力を注ぐなど、探偵小説の大衆化を強く意識していくことになる。

耽奇社 -大衆作家のオールスター名古屋に集う-

ここに一枚の写真がある。

正面中央で構えるのが小酒井不木、両端には小説家の川口松太郎と本田緒生、そして、不木の左側で蝶ネクタイを付け、射すくめるような目をしているのが、今や人気作家となった江戸川乱歩、右側で和服をまとい端然と座しているのが、伝奇小説の第一人者と呼ばれる国枝史郎だ。

昭和2年(1927年)、不木は名古屋市内で、大衆作家たちによる作家組合「耽綺社(たんきしゃ)」を結成した。文壇において同人を集めて活動することは、当時から珍しくはなかったが、この耽綺社は少し雰囲気が違う。

「最初から合作を目的とした組合で、今で言うアンソロジー物の先駆けです。しかも、参加しているのは江戸川乱歩、国枝史郎、長谷川伸、土師清二、平山蘆江など、大衆小説の第一線で活躍する人ばかり。これだけの人物が集まったのは、不木の人徳の現れでしょう」(小松先生)

特に、国枝史郎の不木への入れ込みようは親密を越え、「心酔」と言っても良いほど。
すでに拠点を東京へ移していた乱歩と違い、国枝は西区菊井町でバセドー病と闘いながら執筆を行っていた。不木と乱歩には川口松太郎の紹介によって出会い、親交が始まったという。

国枝は自分より2歳年下の不木を医者として尊敬し、文壇の後輩として先達し、その人柄を慕った。辛口の批評を行う国枝が、不木の作品に関しては一貫して褒め、耽綺社についても、初期段階では国枝と不木の二人で進めようと計画していたとも伝わる。さらに、酒好きだった国枝が不木の注意で禁酒を断行。愛知県の新舞子に新居を構えた時には、自宅の真横に不木の別荘を建設させようとさえした。まさに「心酔」と言えよう。


耽綺社会合

こうして、伝奇・幻想小説の国枝史郎、時代小説の長谷川伸などを不木が“社長”としてまとめ、念願であった万人のための探偵小説を目指す作家組合が誕生した。大衆作家のオールスターを名古屋に集め、鶴舞の寸楽園や大須のホテルで、月に一度の例会を開いて合作小説を書き上げる。不木の実務手腕と錚々たるメンバーに、誰もが耽綺社の将来へ期待を抱かずにはいられなかった。唯一人、乱歩を除いて…。

三角関係と軋轢

昭和2年、江戸川乱歩は新聞連載「一寸法師」終了を期に休筆宣言し、放浪の旅へ出る。

小松先生は「極度のスランプに陥った乱歩は、行く先も告げず旅へ出ました。しかし、不木などのごく近しい人には手紙で居所を語っています。耽綺社ができたのは丁度このとき。実情として金銭面・アイデア面での不木による乱歩救済の意味は強かったと思います」と語る。

この時期の乱歩は、果敢に中央の文芸誌・文壇へ挑んでおり、その推進力が探偵小説の世界にも大きく寄与していたという。名古屋にいるため、乱歩の挑戦に関して明るくなかった不木は、スランプ脱出には合作を行えば-アイデアを持ち寄り、原稿料を分配することで安定した収入につながる-との、いかにも学者らしい発想をその根底に働かせていた。

何より乱歩を見出した“親心”が、そうせざるを得なかった。

乱歩は不木の気遣いを肌で感じると同時に、その目的を敏感に嗅ぎ取ったようだ。数回出席した後は、反抗期の子どものように、簡単な挨拶だけの手紙を寄こすだけとなる。不木は再三に渡って乱歩に来名を勧めたが、執拗な要請も空回りするばかりだった。

そして、国枝史郎の存在がこの関係を一層複雑にする。国枝は例会ごとに文芸誌出身の立場から持論を語り、「描写がなってない」と探偵小説をこき下ろした。この態度に参加者たちは鼻白む場面も多く、国枝は次第に孤立していった。

「過去に国枝が乱歩の作品を誤読して批判したこともあり、二人の間には大きな溝がありました。それ以前に、気性の激しい国枝史郎と我の強い江戸川乱歩は、全く相容れなかったようです。不木は強烈な二つの個性の間で相当な苦労をしたと思いますね。国枝が不木を慕い、不木が乱歩を心配し、乱歩と国枝がいがみ合う。いわゆる三角関係だったのでしょう」と小松先生も苦笑する。また、言い換えれば文芸志向、大衆志向、芸術志向…この三者の関係は、昭和初期における文学界の力学を体現したかのようにも思える。

耽綺社の活動は、初期の「空中紳士」や「ジャズ結婚曲」こそ珍しがられたが、昭和3年末には上記のような内情から、代作の横行と感情トラブルによる軋轢が生まれ、活気を失っていった。

不健全派の最後

昭和4年4月1日、小酒井不木は39歳の若さで、この世を去った。突然の死に、世論は持病の肺結核の再発かと疑ったが、風邪による急性肺炎だったという。

国枝史郎が不木の最後の様子を記している。3月27日から体調を崩していた不木は病床で「もう三年、いや三日生きたかった」と、しきりに周りへ漏らした。いよいよ死期が迫ると、不木は集まった医者たちに「どうかしろ! どうかする方法はないか!」と一喝。医者の一人が呼び掛けると「うん!」と頷いてから、静かに息を引き取ったという。

皮肉にも、不木は病魔に冒されたからこそ、アカデミックな分野を離れて探偵小説の世界に至り、病身で名古屋に根を張らざるを得ないことで、大衆作家を呼び寄せて名古屋の文壇の興隆を成した。不木亡き後、耽綺社は自然消滅して、国枝と乱歩は袂を分かつことになる。

その後、国枝は執筆活動から徐々に遠ざかり、晩年は事業に手を染めることに。他方、乱歩は小酒井不木全集を刊行した後、ジュヴナイル小説の代表とも言える「少年探偵団」シリーズや自作の映像化・舞台化などを積極的に展開。不木が目指した、探偵小説を大衆化する道のりを煩悶しながら辿ることとなった。

乱歩は後年「私はむしろ先輩以上に百万人のための製作を続けて、今に至っている。そして小酒井氏は亡くなる前に改めて真剣な創作に向かわれた。私もこの先輩の道を歩み得るのだろうか、歩みたいものである」と不木の姿勢を再評価し、書きしのんでいる。

不木逝去の報はすぐさま全国を駆け巡り、中央・地方を問わず新聞雑誌で追悼特集が組まれて、早すぎる死を惜しんだ。“不健全派”小酒井不木の最後は万人に見送られる形となり、そして、日本探偵小説は母の面影を胸に、次の時代へと羽ばたいて行った。

(文中敬称略: 一部、一般的な呼称を重視しました)

小酒井氏の実家があった蟹江町の歴史民俗資料館内、小酒井不木展示室は平成23年度からリニューアルへ向けて始動するそう。西区、鶴舞、大須と身近な名古屋の地名がたくさん出てきましたね。大正~昭和初期にかけての郷愁と名古屋で生まれた探偵小説の隆盛を思いながら、「日本探偵小説の母・小酒井不木」の足跡を追うのも面白いかもしれません。

参考文献
子不語の夢(皓星社)
江戸川乱歩日本探偵小説辞典(河出書房)
国枝史郎探偵小説全集(作品社)
協力
蟹江町歴史民俗資料館
江戸川乱歩
明治27年、三重県名張市に生まれる。少年期を名古屋市で過ごし、旧制愛知県立第五中学校(現: 瑞陵高校)卒業。早稲田大学に進み、卒業後は新聞社、広告代理店、貿易会社などの多様な職種を経験した。大正13年に「二銭銅貨」でデビュー。人気作家となった後は、活動を東京に移し「陰獣」「鏡地獄」「芋虫」「怪人二十面相」などの探偵小説・推理小説を執筆。独特の作風と異様な世界観で一時代を築く。昭和40年没。
国枝史郎
明治20年、長野県諏訪市に生まれる。早稲田大学を中退後、劇作家として出発。文芸誌「早稲田文学」などに寄稿して人気を博す。大正12年に名古屋市西区菊井町に移る。持病のバセドー病と闘いながら代表作「神州纐纈城」や「娘煙術師」などの伝奇ロマン小説を発表。晩年は関東でカフェやダンス教室などを営む。昭和18年、咽頭癌により死去。 没後、三島由紀夫により伝奇小説の第一人者として再評価される。
小酒井不木
明治23年、愛知県名古屋市に生まれる。医学博士。東京帝国大学医学部卒業後、欧米諸国へ留学。持病の肺結核のため中区鶴舞の自宅で療養しながら医学随筆を執筆する。江戸川乱歩を世に送り出した後、自身も「恋愛曲線」「人工心臓」「疑問の黒枠」などの作品を発表。名古屋での合作組合「耽綺社」を興し、探偵小説・大衆小説の普及に努めた。昭和4年、急性肺炎により死去。
小松史生子
金城学院大学文学部日本語日本文化学科准教授。探偵小説を軸に日本近代文学・文化研究を行う。著書に「乱歩と名古屋-地方都市モダニズムと探偵小説原風景-」「探偵小説と日本近代」など